版画『ノートル・ダム大聖堂とその前庭広場』(フォン・メルラン板刻、1650年)
十二世紀に創建された大聖堂、その前庭広場、そして右手のパリ施療院

サンシモン公爵 著『回想録』。太陽王の世紀を活写する
第一級史料において、当代最高の貴族が1709年の厳寒、
飢饉、悪疫をつぶさに語る。

 ルイ十四世の晩年1709年1月5日パリの気温は氷点下40度へ降下し、交通と商業が途絶した。異常な気候は翌年まで続き、フランス全土が凶作と飢饉に襲われ、食物の不足と不良によって赤痢と壊血病が蔓延した。
 フランスでは2020年1月25日最初のコロナウイルス3名感染が確認され、3月末日には感染者総数5万人以上と発表された。モクロン大統領は3月16日都市封鎖と外出制限を発令し、4月にはこれらをさらに強化した。

               図説第二輯への基盤論文
リスボン大地震におけるポルトガル王権の緊急政策と社会各層の救援活動
 

油絵『サンルイ島東端とランベール館(ラグネ画、1757、カルナヴァレ歴史博物館 複製 alamy)
右手はセーヌ右岸グレーヴ河岸。水運と交易の拠点である。宮廷医エルヴェシウスは河岸近くの
小道に医院を構え、哲学者エルヴェシウスはそこで幼時を過した。

        図 説 第一
オランダ共和国の医療と錬金術師ヘルヴェチウス
研究者登録 ReadResearch
HP: PAST AND PRESENT(基本サイト)
   http://hnagaya.net/index
 

コロナウイルス緊急事態、艱苦の2020年に、埋れし災害史書を発露する
  
      HISTORY OF EPIDENIC CORONAVIRUS  http://hnagaya.net/topf

永冶日出雄 ながやひでお

開設 2020/04/08
更新 2020/06/17
 貧者・弱者のために設けられたパリ施療院は、ノートル大聖堂と直結し、その起源は九世紀にまで遡る。施療院の管理は
 パリ司教と大聖堂参事会が掌握し、貴族階級と第三身分がこれを支援した。
 なお、日常の業務については医療の運営をアウグスチヌス会修道士が、また患者の介護をアウグスチヌス会修道士女が担当した。

  〈吐根〉開発を周知させるパリの公告
 さるオランダ医家が多年にわたる探求と研究の結果、赤痢に
対する特効薬をついに創出し、施薬の準備を整えたので、公衆に
告知すべき重要事項として以下のごとく告知する。すなわち、
サン・ルイ街明星亭において開業する医家エルヴェシウスの
もとで、これなるブラジル原産の散剤を適切な価格に服用し、
赤痢を治療可能なのである。
  
L Lafont, La Dynastie des Helvétius, 1926, Paris, p.34.

油絵『ヴェルサイユ宮テティス洞壁におけるルイ十四世』画上は
ルイ十四世(中央白馬馬上)と王太子ルイ・ド・フランス(国王
の右、栗毛馬上)

十七世紀フランスの代表的画家ニコラ・プーサンの大作『アスドッドのペスト猖獗』
(1630) 題材は『旧約聖書 サムエル記』に基づくが、1629年北イタリアの
悪疫蔓延を契機に制作された。この油絵は数奇な経路を経たのち、枢機卿リシュリュー
の采配でフランス王権に買上げられ、1680年代にはヴェルサイユ宮特別室に納められ
ていた。こうした作品の制作と秘蔵には防疫への祈願が籠められたであろう。


『ウィリアム三世とウヌール包囲戦』 (ヤン・ウィックの代表作 イギリス軍事史料館所蔵)1695年大同盟戦争においてナッソウ・オラニア家
ウィリアム三世は、連合軍のウヌール包囲戦を指揮し、ハイデルブルク占領を狙うルイ十四世に、決定的な勝利を収めた。

    経験医エルヴェシウスの主著『諸々の疾病と効果的
    治療に関する研究ー公共の福祉と貧者の救済のため』

                〔序文〕
  
 ・・貧しき方々については毎日午前5時半から午後6時半
 (冬季は午前7時から午後8時)まで診察に受入れる。さま
  ざまな熱病や赤痢だけでなく、あらゆる疾患について、
  慎重に容態を調べ、充分な治療を行う。発病の恥辱を怖れ、
  受診を躊躇せぬよう、とくに留意されたい。

2020年コロナウイルスの猛威からヴェルサイユ
を防御するルイ十四世とフランス官憲
AFP 2020/03/30

         図説第一輯への基盤論文  
三代にわたる名医家エルヴェシウス家 ー評伝 エルヴェシウス家の人々
 
     
     

 図説 近代ヨーロッパにおける伝染病と医療・防疫
                           
       序論 -試練の年、過去と現在

版画『ライデンにおけるペスト感染』(ヤン・オルラー刻、1614)オランダ独立戦争の
さなか、ライデンは1574年スペイン軍に包囲され、閉鎖した市中においてペストが蔓延した。

版画『アムステルダム港 1700年』(メアリイ・エヴァンス・コレクション)アムステルダムは海運と交易の
中心地であるため、古来伝染病の猖獗に悩まされた。なかでも1663年のペスト蔓延では住民20万人が感染し、
3万人が死亡した

  図説 近代ヨーロッパにおける伝染病と医療・防疫
    

    第一輯 アンシアン・レジムにおける伝染病と名医家エルヴェシウス

    第二輯 リスボン大地震における救援活動と医療・防疫
版画『パリ施療院』中世に起源をもつ。
大聖堂西南に隣接したが、19世紀中葉同西北
に国立病院として移築・改組された。
版画『パリ施療院の病棟』1709年には
患者4500名が溢れ、大抵のベッドに3人
詰め込まれる。同床のひとりは息絶え、
第二は死に瀕し、第三は重態と噂された。

左記の論文はヨーロッパ文化選修の研究紀要『ヨーロッパ』に掲載された。ヨーロッパ文化選修とは
ドイツ研究者5名・フランス研究者5名をスタッフとして愛知教育大学に15年間のみ存続した研究・教育
組織である。当紀要は最年長のドイツ文学者、故山下茂教授の主導によって刊行され、全国諸大学に
寄贈されるとともに、愛知教育大学付属図書館によりデジタル化された。

1709年 フランス 凄惨な歳月

版画 『プハルツ選帝侯領ハイデルベルク城』ハイデルベルク城には多くの神秘主義者が擁され、ヘルメス・
カバラ的雰囲気に包まれていた。プロテスタント勢力に属する選帝侯フレデリック五世は1619年プロテスタント勢力によってボヘミヤ国王に擁立されが、翌年白山の戦いにおいてカトリック勢力に敗北する。

2020年 フランス 都市封鎖
ヘルヴェチウスの秘伝書『金の子牛』(1667年アムステルダム)と秘術を確認すべく彼の工房を訪問した哲学者スピノザ(F・ヴォルハーゲン画1664年)

セーヌ左岸随一の盛り場サン・ミッシェル。のちに
経験医エルヴェシウスは広場の裏通りに医院を
移した。

シテ島のノートルダム大聖堂と斜め左の国立病院。平素は雑踏が昼夜絶えぬパリ中心部に
人影はない。(AFP TV 空中写真 2020年4月日)
コロナ防御によるアムステルダム運河紅燈街のの静寂 EUTER 2020年3月15日
        図 説 第二
経験医 J・A・
エルヴェシウスと赤痢特効薬の創出

    

ブラジル産イペカキュアナの根から抽出
された吐根(イペカ吐剤はいまも消化器
や呼吸器の治療薬として用いられる。
〈右〉東京都薬用植物園
〈左〉Alibaba France

  コロナ感染 都市封鎖 パリの夜

①パリ・オペラ座 ②モンマルトル ③バスチィーユ

 LE PARISIEN YOUTUBE 19/03/20

第一論文 ヨーロッパの沿革とエルヴェシウス家の源流 PDF 『ヨーロッパ』 第1号 1989
第二論文 経験医J・A ・エルヴェシウスとルイ十四世治下のパリ PDF 『ヨーロッパ』 第2号  1990
第三論文 経験医J・A・ エルヴェシウスとルイ十四世の軍事・外交 PDF 『ヨーロッパ』 第3号  1991
第四論文  宮廷医J・C・A・ エルヴェシウスと1709年の凄惨 PDF 『ヨーロッパ』 第4号  1992
第五論文  ブルターニュの惨状と〈 エルヴェシウス薬箱〉 PDF 『ヨーロッパ』 第5号  1993 
第六論文  医家エルヴェシウスの名声と哲学者 エルヴェシウスの生い立ちpdf 『ヨーロッパ』 第7号
十八世紀より疫病患者や傷病兵を収容
したサン・ドニ医療センター
フランスの都市封鎖とサン・ドニ医療センターへの患者
急送を報じる鵜ユーロ・ニュース(EURONEWS NOW)

  名医家エルヴェシウスとパリ中心部
シテ島、サン・ルイ島およびセーヌ両岸がエルヴェシウス家
の生活および活動の基点をなした。(Michelin Paris Index)
 

新大陸を旅したオランダ統領の侍医ピロンは1648年刊行
の『ブラジル自然誌』において吐根 ipéekakuana の薬効
を紹介した。G Pison, Histoire Naturelle Du Brésil, 1648
.

絵画『サン。ルイ島南側』(施療院に近いサン・ルイ島は経験医
エルヴェシウスが医業を始め、、隣人ジャンヌと結ばれ、悪疫への
特効薬を創案した思い出の地である。

版画『パリ施療院眺望』(A・アントワーヌ刻、1691)サン・ルイ島からシテ島東側の
パリ施療院とノートル・ダム大聖堂を望む。左手はセーヌ左岸。

版画『十七世紀のパリ施療院正面』(17世紀、マリエッテ画)

〈左図〉船着き場で侵入患者を迎えるアウグスチヌス会修道女たち
〈右図〉病床で医療と介護を受ける患者たち

サン・ルイ島で古きパリを偲び、サンルイ街で憩う
人がいまも多い。
版画「1709年の酷寒 橇での往来」(J-B・ルプランス画 フランス国立図書館所蔵)

Michelin Paris Index Plan 1977. pp.31-32.

版画『パリ施療院の病棟』(フランス画派、19世紀)画中は患者、医師、看護婦、そして神父

 第一章  リベイラ王宮の壊滅とポルトガル王権の緊急政策 PDF
 第二章  緊急政策と救援活動の開始ー大地震前夜、震災第一日、震災第二日、震災第三日 PDF
 第三章  緊急政策と救援活動の推進その1ー震災第四日、震災第五日 PDF
 第四章  緊急政策と救援活動の推進その2ー震災第六日、震災第七日 PDF
 第五章  緊急政策と救援活動の展開その1ー震災第八日、震災第九日、震災第十日 PDF
 第六章  緊急政策と救援活動の展開その2ー震災第十一日、第十二日、第十三日、第十四日

名医家の初代ヨハン・フレデリック・ヘルヴェチウスとその主著『観相医学詳論』(1676年)ライデン大学で医学を修めた彼は、共和国軍医総監・オランダ統領
侍医長を勤めるとともに、著名な錬金術師でもあった

町医者エルヴェシウスが〈明星亭〉なる看板を掲げた
サン・ルイ島サン・ルイ街。その店先は貧しき患者の
群れで連日溢れた。