リスボン大地震を辿る−ポルトガルふみ1755-2012年−
HIDEO NAGAYA
永冶日出雄
1147年ポルトガルの初代国王
アルフォンソ一世はサン・ジョルジェ城を5ヵ月攻囲し、難攻不落のリスボンを400年ぶりにイスラム勢力から奪還しました。やがて1255年王都もコインブラからリスボンに移され、サン・ジョルジェ城に王宮が置かれました。
20世紀前半の水彩画家ラケル・ロケ・ガメイロはこのリスボン攻囲を雄渾な画筆で描いています。
ロシオ広場周辺と丘陵アルト・バイロを望む
サン・ジョルジェ城の遺跡と荒墟
サン・ジョルジェ城の広壮な庭園
サン・ジョルジェ城の展望台と砲台
逍遥その1 サン・ジョルジェ城− 万聖節のひととき、王都の城砦に立つ
初出2013/03/11 改編2013/05/23
基本的史料のひとつ、モレイラ・デ・メンドンサ著『世界地震通史ーリスボン大地震』には「11月1日、月暦28日、大気は静穏で雲はなく快晴。10月から温暖な数日が続き、秋としては多少暑さを感じた」、と記録されています。
キリスト教の重要な祭日である万聖節11月1日のひととき、リスボンの象徴ともいうべきサン・ジョルジェの城砦に立ちました。1755年この朝9時半頃、殷富な王キリスボンは未曾有の巨大地震に直撃され、テージョ河を遡上する大津波も重なって、旧市街低地帯のほぼ全域が壊滅しました。さらに8日間燃え続けた大火は、高地帯の教会、殿閣、豪邸をも多々焼尽し、よく知られているとおり、近代ヨーロッパに社会的震撼を与えたのです。
リスボン市街図 2012年
モレイラ・デ・メンドンサはこの日破壊を免れた自宅から急遽サン・ジョルジェ城へ駆けつけました。当時リスボン市会の庁舎は城閣のなかに設けられ、そこでの記録保管が彼自身の職務でした。幾人かの協力を得て、数日間モレイラはここで重要文書の防衛に献身したのです。その間彼は壊滅した全都を城壁から凝視し避難する民衆と艱苦を共にしたと思われます。「多くの悲惨な事実が、」と『世界地震通史』のなかで述べています。「念頭に浮かび、それらの膨大さ、多様さ、深刻さは仔細に語るのを私に躊躇させる。」
夕闇迫るアルファマ頂上のサン・ジョルジェ城
山裾の住民は大地震に動転して、地盤の堅固な城砦へ大挙避難し、大津波に襲われた河岸の住民も続々と登ってきました。城砦の広さから推測して、数千の民衆が蝟集したと思われます。石段や石畳の上、大樹や遺蹟の陰で彼らは幾日も野宿し、絶え間なく叫び、泣き、呻きました。また、震災を神による懲罰と信じて、懸命の祈祷、説教、悔悛がそこで終始営まれ、異様な光景を呈したと伝えられます。
サン・ジョルジュには豪壮な城閣がいまも聳え、片側に石畳の広大な庭園があります。支柱や石段だけが残存する遺蹟が庭園の一隅を占め、長い城壁と砲台に立ってどこからも四囲を展望できます。
病気療養のためリスボンに来たイギリス人牧師リチャール・ゴダールは、万聖節の朝散歩の途上、この展望台で最初の振動によろめきました。周囲の人々もみな動転し、城砦は阿鼻叫喚の巷と化します。
モレイラ・デ・メンドンサ著
『世界地震通史-リスボン大地震』
版画 1745年のリスボン ( A サン・ジョルジェ城 B リベイラ王宮 C 大聖堂 )