政治・法律を学ぶべく19歳にしてフランス留学の途に就いた黒田清輝は、勉学の過程で美術の才能を見出され、画家の道へと転換した。当地で台頭する印象派の影響を受けて明治26年に帰国し、絵画「湖畔」等々や白馬会の結成によって明治の画壇を革新する。

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永冶日出雄 ながやひでお
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図説 黒田清輝と関東大震災

  大震災善後会 被災地視察 1923年10月8日ー9日
     往路 芝浦ー小田原ー(真鶴)ー(伊東)ー館山
     復路 館山ー浦賀ー横須賀ー東京

「薔薇」 1923年
 養父黒田清綱子爵の逝去に伴って清輝は爵位を相続し、大正9年貴族院議員に互選された。
以後美術政策や外交問題への関与をはじめ、議員としての用務で活動で多忙となり、自身の制作活動が著しく制約されるに至った。とりわけ大正12年9月の大地震以降は、被災者への救援・復旧事業に忙殺され、遂には狭心症で倒れた。
 絵画「湖畔」によって著名
な黒田清輝は一九二三年九月
関東大震災が勃発するや、
貴族院議員として被災者へ
の視察・救済を統率し、同年
十二月激務のため倒れた。
 病室で描かれた「梅林」
および「林」(ともに未完成)
が彼の絶筆である。

「漁舟着岸」 1897年 房州海辺で描く。

「大磯」 1897年 相模湾で描く

「自画像」 1914年

  1923年9月1日関東大震災が発生した瞬間、黒田清輝は麻生の自邸で入浴中であった。
 2日後側近の画商、仲章吾を伴って本所被服廠跡の大惨事を視察する。やがて渋沢栄一の主導によって貴衆両院と有力実業家の連携が計られ、被災者救済のため資金の募集と交付を主眼とする組織、大震災善後会が東京を商業会議所を本拠として結成された。
  議員代表のひとりとしてこの事業に参加した黒田は、常任委員として連日弁当持参で出勤し、活動の中核である救済部会で部長たる重責を担った。
 救済活動についてみずからの証言はないが、彼の尽力と貢献を端的に伝えるのは、大震災善後会の公式記録、とくに救済部会議事録である。

 

「紅葉」 1923年
「しゃくなぎ」 1923年

「湖畔」 1897年

「挹芳園」 1923年
「雪、松アリ」 1923年

    震災発生の年1923年における黒田清輝の制作
  いずれも制作月は不明であるが、「挹芳園」と「紅葉」は大地震以降と思われる
     (「黒田清輝作品集」国立博物館黒田記念館 online )
 

    
   「湖 畔」
あまりにも有名な黒田の代表作
  箱根芦ノ湖畔で描く。


 「私の23歳の時で、夫が湖畔で
制作しているの見に行きますと、
其処の石に腰かけてみてくれ、と
もうしますのでそう致しますと、
よし明日からそれを勉強するぞと
申しました。雨や霧の日があって
結局1ヶ月ぐらいかかりました。」
  (黒田照子夫人の回想)

大震災善後会の一行が視察した相模や房総の沿岸は、かって黒田が好んで写生した景勝である。

「梅林」1924年

「林」1924年