修道女たちを追悼するステンドグラス
(ファティマ尼僧院)
大地震の被害のなかでも、
サンタ・クララ尼僧院では
在俗の女性を含め、123名
が死亡する大惨事となった。
【第534項】
この物語における論点の一つであるから、私も可能なかぎり厳密に調査したいと思う。なぜなら、地震の1週間後にはみな見方を控え目にしたし、数ヵ月後には10万人もの死者ではないと強調されたからである。そこで私は確証できる見解を得られる方法を考え始めた。街々に私が出向き、近隣から消えた住民について数ヵ月後どうなったか、まずひとりに尋ねてみる。こうした面倒な調査を始めたが、時間の不足によって続行できなかった。その代りに私はリスボンのあらゆる街々の情報を集めた。また、別の見地から五人が死亡したとされる教区の司祭を捜した。教会から避難できた沈着な民衆は、死んだ人数がそれより多いと言う。住宅や街路や教会で地震と火災により歿した人々について、私はつぎのように推論する。宗教組織と聖職者団体のすべて、貴族・閣僚の多数の連合、世俗的な同業組合、さらには司法機関と行政機関において消えた人数を確認してみよう。これらすべてについて推算した結果、記帳の仕方に大差はないので、地震の当日倒壊や氾濫や火災に巻き込まれた人数は五千有余かそれよりすくないと考える。また、治療を受けた無数の負傷者のなかで、病状の悪化により11月のうちに加えて5千人死亡したことは事実である。この問題をめぐり厳密に算定できるのは以上に尽きる。
【第531項】
リスボンの地震、火災、津波による死者の数は、正確な数値としては実際に定め難い。そこでの人口稠密な地区が大半
灰塵に帰し、ほかの地、、区も瓦礫に埋もれ全市が無人の荒野と化したのを地震の数日後に目撃した人は惨憺たる光景に
驚倒して、住民の大半が死亡したと語った(ヨーロッパ全土で多くの人士がそのように書き、公にされた)より控え目に
二分の一と言う人もあり、三分の一と述べる人もある。この場合あまり考慮されていないのは、数限りないリスボンの
家族が王都近郊の全地域、広範な首都圏の裁判管轄区全四十地区、さらには王国全体のあらゆる都市と街々、ほとんどの
村々に避難したことである。多くの住民がリスボンからローマへ、あるいはヨーロッパ諸国のあらゆる大都市へ逃れた
とも考えられる。
帽子屋カルネイロの物語
1790-1800 ルーサ王立工芸所制作
国立アズレージャ美術館所蔵
Antonio Joaquim Carneiro
1790-800, Real Fabrica de Louca,
Museu National do Azulejo, Lisbon.
3/通覧VII
神の怒り その4
『新約聖書ヨハネ黙示録』第18章
大いなる都バビロン、撃砕されて,以後、すべて失われるべし。
立琴、恋歌、横笛、喇叭の演奏、もはや響かず、
多種の工芸、もはや輝かず、臼を挽く音、もはや鳴らず、
燈明の光、もはや照らさず、新郎新婦の声、もはや聞かれず。
L'Apocalypse, La Bible de Jerusalem
ロバート・バティイ画 ペルリンホ広場
Largo Pelourinho, Lisboa, byRobert Batty(1789-1848),
5/通覧VII
ベネディクト会修道士 (Hours Fouquet)
シトー会修道女 (Hours Fouquet)
ベネディクト会修道士(Fouquet)
銅版画 リスボン大地震 王都東部の破壊と大火 制作:オランダ 1756年頃
Lisbon seen from the east during the earthquke, Netherlands, 1756.(KOZAK)
リスボンの海鮮市場 Mercado de peixe Lisboa
6/通覧VII
オラトリオ会フィゲイレド神父
中国風の優雅な奥方 1790-1800 ルーサ王立工芸所制作 国立アズレージャ美術館所蔵
Fugurative Shhar with Chinoiserie
フランシスコ会修道士 (Domenico Ghirlandaio)
イエスズ会修道士 (Historia Portugal)
4/通覧VII
リスボン新町界隈ペルリンホ広場周辺(赤線-震災前、
黒線-震災後) Local do Largo do Pelourinho (Vieira Da Silva),
ペルリンホ広場では定期的に奴隷市場も開かれた。
Slave shop in APDG, The Sketches of Portugeuse Life, 1826.,
1/通覧VII
2/通覧VII