神の怒り その2
   『新約聖書 ヨハネ黙示録』(第6章)
 第6の封印開けしとき、大いなる地震起りて、
日は黒く厚き 布に覆われた如く暗転し、
月は一面血に染まり、あらゆる山と島
その地盤を外されたり。地の諸王、貴顕、大臣、
将星、富者、権門、さらには自由なる民、
隷属する民、みな山中の洞窟と巌間に逃れたり。
  L'Apocalypse, La Bible de Jerusalem.
【第494項】
 敬虔な家族や寄り合う民衆が毎日祈祷を続け、聖像ペンハ・フランサの前で聖母マリアの加護を祈った。ほとんどが半裸であって、みな平伏したままである。近親の安否の知れぬ人は、声よりも涙しか出ない。被害や生死や災厄について尋ねることなどできなかった。掘り出された生物は色も形もなく、すべてが悲痛であり、悲惨である。太陽の光が消え、いつも物寂しい夜がいまやきわめて怖ろしく感じられる。なぜなら、喜悦と時刻と調和を告げる鐘が消失し、一切が不気味な沈黙に包まれ、怯えた生物は声すら発しないからである。

【第496項】
 埋葬されない遺体が寺院や街路、さらには建物の残骸のなかに横わっていた。極度の苦悶を続ける重傷者は、生き延びるよりも死を願った。比較的軽度な負傷で、生き残れる人も荒墟では救援を得られず、多数死亡した。死者を葬るため迅速に行動するよう、総大司教枢機卿猊下は聖職者と教区司祭に指示された。同じ配慮を国王陛下も示され、人々を適切に導くため、国王軍の将校を重要な用務に任命された。聖職者ではないが、こうした活動に幾人かが献身的に従事した。ラフォエンシア公爵の弟、ジョアン・デ・バルガンサの深い徳業は傑出しており、建物倒壊の危険のなかであまたの生物の救出や多数の遺体の埋葬に日々労苦された。サンパヨー殿も怖ろしい危険をも顧みず、幾人かの協力のもとに数週間同じような作業を続けられた。240の遺体が墓に葬られ、多くの生命が荒墟から救出された。治療のため病院へ運ばれた者もある。天の特別な恩寵によって荒墟で生存した人のなかには、4日後にペンハ教会で救出されたひとりの男性、7日後にサンタ・マリア大寺院で救出された他の男性、そしてカノス街で9日後に救出された少女が含まれる。


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リスボン大地震通覧目次

【第501項】
 慈父の心と王者の勇気をもって徳高き国王陛下は、広大な田野に居続ける幾千人もに必需品を支給するよう命じられた。ベレンへ移された者には、必要に応じかならず医薬が供される。多数の王族や沢山の外国人にも仮設小屋や板塀用の木材が調達された。
【第502項】
 この災厄に率先してアントワーヌ殿下、ジョゼ殿下、ガスパル殿下は寛仁と高潔な気概をもって対処された。壮大なパルハーラ宮殿の広大な緑地では、庭園と森に千人以上が収容された。みな充分な食糧を提供され、数ヶ月そこに留まる。彼らの需要を充たすため、沢山の衣服も送られた。こうした親身な厚意と大いなる博愛に対して到るところから讃辞が寄せられる。その名声は世界に伝えられ、諸殿下の徳業が遍く称讃されるに至った。
  図説 リスボン大地震通覧 III
                   
 
 モレイラ・デ・メンドンサ著『世界地震通史』と往事ポルトガルの絵図

 総大司教 J・M・カマーラ・ダタライア
(Florida International University Libraries)

 
王宮に隣接する総大司教教会は壊滅し、
総大司教は従者に担がれて脱出する。
持病の悪化をおして彼はポルトガル王権
と協力し、聖職者の救援活動と祈祷行事を
指揮した。

   オラトリオ会山荘の正面と中庭。
(Pereira de Sousa, O Terremoto do 1 de
 novembre de 1755 em Portugal.
.)
【第497項】
 称賛すべき愛徳をもって若干の貴族は外科医を伴って数日間田野を巡回し、放置された負傷者を治療した。また、王立誠信病院の指示によってサン・ベント修道院とサン・ロケ修道院に囲地が設けられ、無数の負傷者をそこへ運んで、多くを治療した。彼らの大半は腕や脚を切断し、多数の負傷者が傷口からの壊疽で死亡した。

高台サンタ・カタリーナ広場に避難した被災者たち、
ジョアン・クラマ 1760年制作(リスボン国立古美術館)
Praca de Santa Catarina com pessoas desalojadas e feridas
a juntat-se em frente, por Joao Glama-Strobele, 1760,

 

奉納画 瓦礫に埋もれた子どもの救出。救われた子どもの父親から教会に奉納された。(リスボン市史料館)
Attempt to rescue child from rubble, portugal.

【第495項】
 なによりも神への愛と隣人への博愛が人々の心に溢れた。敵同士が抱擁し、たがいに赦しを求めた。友人や知己が生きているのを知り、たがいに祝福した。肉親や財産をなくした人も親身に慰め合う。徳高く誉むべき行為であるが、ながくは持続しなかった。

2/通覧III

5/通覧III

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【第503項】
 すべての聖職者は僧院の門戸を開け放ち、幾百もの
家族を受け入れた。あらゆる場で多くの博愛がなされたが、改革的な聖アウグスチヌス修道参事会とサン・フィリィッペ・ネリ信心会(オラトリオ会)の篤実な聖職者がとくに際立ち、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院とネセシダス修道院の構内に多数の家族を避難させた。
【第504項】
 多くの貴族や個人が博愛という美徳を実践し、能うかぎり最大の仁愛をもって邸宅や農園にあまたの民衆を寛大に受け入れた。すべては徳業の機会を授ける神の意向である。主イエスは貪欲な者の多くを気前のよい慈善家に変身させた。つねに神慮が無限に偉大であることに感嘆する!
【第500項】
 リスボンの住民は近郊の田野や王都の周辺を放浪した。ここでも神慮の偉大さが明白に感じられた。幾千もの家族が住居も衣服もなく、食物を買う金子も持たず、悪天候から身を護るのに必死であったが、慈愛深く至高なる父に彼らは支えられ、飢餓で絶命する者はなかった。

リスボン近郊における民衆の避難と盗賊の処刑 (リスボン市史料館)Acompamento de
refugiados arredores de Lisboa , e execacao de criminosos, Alemanha, 1755
.

サンタ・バルバラ緑地と呼ばれたアロヨス広場
ドミンゴス・セケイラ素画 1810年 (リスボン古美術館)
  Largo de Arroios em 1810 por Domingos . Sequira

 オラトリオ会ではシアード地区の聖霊
修道院が崩壊したあと、リスボン近郊
ペレイレ緑野の山荘を拠点とし、多くの
住民を受け入れた。 また、リスボン
総大司教もしば らくそこへ避難した。

    

 避難する民衆に神への謝罪と悔悛を促すイエスズ会士マラグリダ神父と
彼の著作『リスボン地震の真なる事由』
 O Padre Malagrida pregando aos Sobrevivientes (KOZAK)

 
マラグリダ神父の警世的な布教活動は、啓蒙思想に
依拠するポルトガル王権とやがて壮絶な葛藤に到る。

【第498項】
 王都の中核全体が怖るべき沙漠と化し、火災で黒焦げの高層建築の先端以外には、瓦礫の山と灰燼の山しかなく、いつも大きな人波と
豊かな財富で溢れた大道も、形跡しか見当らない。王都を熟知する人もどこに踏み入れたか判らず、惨憺たる現実を見て、脳裡の記憶を疑ったのである。

3/通覧III

【第499項】
 総大司教猊下はミサの供物を捧げるため、田野に運搬できる祭壇の製作を命じられた。また、万聖節に必要な
聖具を持ち運び、サンタ・バルバラ緑地でもミサが行われた。


第5・第6封印を開く( アルブレヒト・デューラー
『ヨハネの黙示録』)
Albrecht Durer
,
L'ouverture des 5e et 6e sceaux,
Apocalypse selon Saint Jean, 1598

1/通覧III

題字には1755年リスボン大地震とのみ誌されるが、被災者の
救出活動を描いた貴重な銅板画。1793年にウイーンで制作された。
(リスボン市史料館)Cena de sorrow, Viena, 1793.

千人以上の被災者が収容された王都北部パルハーラ宮殿の
正門と庭園。現在のリスボン駐在スペイン大使館である。
Palacio Palhara (Enbajada de Espana en Lisbon).

総大司教教会広場 『版画集・リスボン荒墟の偉観(多色版)』 左手は壊滅した教会、右手は
リベイラ王宮の一部  Praca da Patriarchal, Collecao de algumas ruinas de Liboa.

4/通覧III